先日記事にした攻殻the movieではラストに少佐が人形遣いと合体を遂げました(人格的な意味で)。
自己を自己たらしめるものとはなんだろう。記憶か、思想か、魂か。
信者であること、あるいはアンチであることは、自分の中でひとつのステータスを獲得する手段に
なりうる。でも、それはとても幼稚な手段だ。
というわけで、そろそろ自分も鳩2を毛嫌いしてみたりべっかんをハンコ呼ばわりしたりというのを
やめてみてもいいんじゃないかと思うのですね。
良いものは良い。良いと思ったら素直にそう受け取ればいい。
ところがしかし。
ココロにはどうも妙な防衛機制があって、「好き」の領域をあまり広げようとすると
「それでええのんか?ホンマにええのんか?」とブレーキがかかるんですね。
時間的、金銭的、そんな基準よりもっと実際的には心の容量というか、そんなに愛の領域を広げて
自分は大丈夫なのか、もつのか。そんな漠然とした、ともすれば明確な不安。
まるでこれまで自分が食べてきたものが一丁前に自分のアイデンティティとして確立されていて
それが未来永劫変わってはいけないかのように。
しかしそんなちっぽけな保守性は、大概ちょっとした出会いですぐ吹き飛んでしまうのでありました。
いや今回具体的になにがあったってわけじゃないんですけどね。
と思ったら数日前の鈴平ひろ改宗がありましたか。
人は変わっていく。自分もまだ若い。もっといろいろ食べていこう、ぜひ召し上がろう。
食わず嫌いはいくない。
偏見を捨てなされと人には言いながら自分はどうなのだろう?とはたと振り返った深夜のことでした。
実際に触れてみてこれはどうだ云々と評するのはまた別の話。
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